読んだ見た感じた笑った!ことをつれつれと。
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05/28
マトリョーシカ
村上春樹氏のエッセイ「やがて哀しき外国語」で、
いわゆるスーパー・エリートの中には自己紹介で名前を名乗るなり「僕の共通一次(今で言うセンター試験ね)の点数は何点でしてね…」と滔々と話し始めるという「共通一次男」がいる、と知った時にはかなり驚いたものだが、社会に出るといろいろな人に会うわけで、
そういえば、会ったことあるわ、私もそういう人に、とふと思い出した。

私が会ったのは「私のパパは社長女」だった。
会社員時代に出会った彼女は、初めてのランチの時から
「私のパパったらねぇ・・・」と家族について延々と話しだし、
その落とし所はことごとく、家族への愚痴を装った「我が家はお金持ち」ということだった。自分の父親を人前で「パパ」と言う大人に初めて会ったので(違うパパかと思いました)、ある意味ただただ感心し、毎回ぽかーんと話を聞いていたのだが(ランチタイムは彼女の独演会だった)ある時彼女が「だってこんな人たちと一緒にされたくない…」と何かの時に口を滑らせ、「ははぁ」と思ったのだった。彼女の話は全部「私はあなたたちと違って、こんなに素晴らしい」という訴えだったのだな。そして、それが彼女のアイデンティティなんだなぁ、と。

今ならわかる。
そういうことをアイデンティティとして抱え込むことの、生きにくさを。

マトリョーシカのように、かぱりかぱりと自分を開けていって、
そのずっと奥の奥に「これが私です」と言うものがあるのだとしたら、
できれば無駄な「マトリョーシカ」に身を包まずにいたほうがいい、と、思う。

結局のところ、みんなが(もちろん私も含めて)
ぐるぐると探しているのは最後のマトリョーシカだと思うから。



明日はいよいよその村上氏の最新刊の発売。
うう!楽しみ。

05/27
Positive Thinking!
少し前まで、自分に関する出来事を良いほうに覚えていたり、
都合のいいように解釈しているヒトというのは
客観性が極端に欠如しているか、
言ってしまえば、正直でない、とさえ思っていた。

若かったな、と思う。
シロかクロか。
正義か悪かしかないという、2元性の世界。
本当はもっといろいろなものが影響しあって絡み合って、
とてもどちらかではあらわせないこと。

100歳すぎても元気なお年寄りに、
小学校のころの成績はどうでしたか?と聞くと
必ず「一番だった!」と答える、と言う話を聞いた。
調べると本当は全然そうじゃなくても。

初めはただ笑っていたが、そこだよなぁ、と思いなおした。
強烈なボジティブ・シンキング。
ザ・思い込みパワー。

自分で作った自分の世界は、誰にも壊せない。
他人が、いや違うでしょ、あなたこうでしょ、こうでしょ、と
介入する権利は、きっと、ないのだ。

そして、そういう世界をきちんと持っている人は、きっと強い、と思う。
少なくとも100歳まで長生きするくらいには。


05/08
映像のない記憶
ずっと興味のあった「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」へ行った。

これは、自分の手も見えないほどの真っ暗闇の中を8人のグループで、視覚障害者のアテンドで進んでいくという90分の別世界の体験。

本当の暗闇がどういうものか、途中で恐くならないのか、どんな人たちと同じグループになるのか、楽しみにしていたことはいろいろあったが、なによりも視覚障害の人たちがどんな世界に生きているのか知りたかった。

暗闇の中で、今まで知らなかった人たちとの距離が突然ギュギュッと近くなって、無邪気に「ここに樹がある!」とか「鳥の声が聞こえる!」とか教えあったり、こっちこっちと助け合ったり。
アテンドの「ひやまっち」の頼もしい声に勇気づけられて右往左往しながらもなんとか先に進んでいく。

私にとっては視覚障害の人と言葉を交わしたこと自体初めてだったし、街ではあまりにも不自由そうに見えていた彼らが、ここでは「本当は見えているのでは」と思うほどすいすいと素早く動き、頼もしくユーモアを持ってみんなを引っ張っていくことに、深く感じることがあった。

そして、真っ暗な中だからこそなのか、
みんなが初対面と思えないほどとてもよく話す。
「休憩」で座ったときに
「本当は自分以外のみんなは見えてるんだったら、どうする?」と
言ってみたら、みんなが笑った。
そう、中にいるときには、自分が見えないのはもちろんだけど、
周りの人にも見られていない気楽さがあるのだ。

「見えている」ことで判断して初めて会う相手を遮断してしまう、
相手の表情を深読みしすぎて言葉を飲み込んでしまう、
「見えている情報」でどう判断するのか、どう判断されているのか、という常につきまとう不安から「見えないからこそ」自由でいられること。
誤解を恐れずに言えば、
視覚障害の人は「見る」という感覚を使わないからこそ
「自分がどう見られているか」という感覚からもある程度自由で、
そのぶん自分の中の声、感覚に素直にいられるのではないか。
私は暗闇の中で、人を見ること、見られることから離れて、
動きは不自由でも心はのびのびと自由を感じたから。

そして、意外にも、もうどうやったって何にも見えないことはわかっているのにどうしても世界を視覚でとらえようとすることを、とうとう最後まで手放せなかった。その一歩がどうしても踏み出せなかった。
目を閉じるのが、恐いのだ。閉じても開けても、同じ暗闇なのに。

暗闇の世界と言っても私が感じたことはほんの序の口で、ひやまっちが体験している感覚とはきっと全然違うのだろうと思う。
というのは、最後に少しだけ明るい部屋で目を慣れさせているときに「ひやまっちはいつもどれくらいの暗さの中にいるんですか」と聞いてみたら「この部屋も前の部屋も僕にとっては変わりません。僕は本当言うと、暗闇というものがわからないんです。」と答えたのだ。
それはまるで何かの比喩のように聞こえた。

途中誰かが「夢の中にいるみたい」といった。
そう、映像のない記憶は、
思い返そうとしてもまるであいまいな夢みたいだ。
濃い草の匂い。
ほおに感じた風。
ぐにゃりと曲ったような時間の過ぎ方。
あいまいだけれど、きっとずっと忘れられない夢。
深い深いところへ、その時だけの仲間と降りて行く体験。

「Dialog in the Dark 」
http://www.dialoginthedark.com/
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